コップを新調
ここ数年使用していたソーダガラスのタンブラーが欠けてしまったので、新調。
これ以上ないくらいシンプルデザイン。そして耐熱(使用するかどうかはわかりませんが)。とても気に入りました。
薄いグラスで飲む麦茶はとても美味しく感じます。
少しお高めのグラス(あくまで我が家比)を使用するのは躊躇っていたのですが、子供ももう中学生になり、不注意にグラスを落としたりすることもなくなったので思い切って買い替えました。
妥協しないで(たとえば間に合わせで100均で購入したりしないで)、自分の気に入った物を手に入れると心が落ち着きます。使用する時の至福感。
捨て期が再び到来
ここ10年あまり、何度も来る「捨て活モード」。その度に物は確実に減っていきます。
ですが、まだ納戸や袋棚など、本当の意味で片付けられていない場所がいくつかあります。(旦那や子供の私物は捨てません。)
・母の終活が始まってから送られてきた私の学生時代の写真や通知表、入賞した絵画、母子手帳その他もろもろ。
・母からもらった大ぶりで昭和なアクセサリー。
この辺は写真に収めて捨ててしまおうと思います。写真を撮影したところで見返すこともないのですけれど、後ろ髪を引かれる思いをそのまま写真に閉じ込める作業、とでも言いましょうか。
今回は相当、私の半生を振り返る(ちょっと大袈裟ですが)作業を伴う大掛かりな捨て活になりそうです。でも、自分の学生の頃の通知書や母子手帳、臍の緒、連絡帳など、たしかに見返すとその時は懐かしい気持ちにはなりますが、今の私には全く不要。これからも不要です。
自分の子供の物はもちろん取っておきますが、これも彼女が成長して、自分の家庭やフィールドを持ち、その時に私の終活に伴ってそれらが送り付けられてきたら・・・正直迷惑かもな、と思います。
捨てることは「決断すること」の連続なので正直とても疲れます。
昔読んだ佐々木典士さんの著書「ぼくたちにもうモノは必要ない」にも書かれておりましたが、捨てるには技術が必要なのですよね。いきなりは上手にならない。
捨てる、また購入してリバウンドする、の繰り返しの根本には、捨てる人間の精神や感情が大きく関係しているようです。
満たされない気持ちを補うために、気に入っていないのに間に合わせで補充するモノを買い足して、そして捨てる。そのループでしかないのでしょう。
自分の気持ちに正直に捨て活最終章と称して捨てていきます。
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